ダービーグランプリがいよいよ間近に迫った。第36回にして、最後となるダービーグランプリだ。
地方競馬の全国からダービー馬を集め、「ダービー馬によるダービー」という、交流レースが少なかった当時としては画期的な企画だった。
元号は2つ遡って昭和61年(1986年)、第1回が行われた。いわゆる"バブル景気"はその年末から始まり、景気上昇とともに競馬の売上も上昇していくのだが、創設時にそんなことは誰も予想はしていなかったはず。そう考えると偶然とはいえ絶好のタイミングだった。
1着賞金は2000万円。この年、岩手の主要古馬重賞、みちのく大賞典や桐花賞が1000万円だったことを考えれば、破格の高額賞金だったといっていい。その後、前述のとおりバブルとともに競馬の売上も上昇し、90年には3000万円、92年の第7回には5000万円となった。92年の大井競馬の賞金を見ると、東京ダービー、東京大賞典(当時は南関東限定)が6800万円だから、地方全体でもトップレベルの賞金だった。
こうして盛り上がりを見せたダービーグランプリだが、時代の流れとともに数奇な運命を辿ってきた。
中央と地方の"交流元年"と言われたのが95年のこと。翌96年にダービーグランプリは中央と交流のGIとなり、1着賞金は6000万円。
交流初年のダービーグランプリには、なんと皐月賞馬イシノサンデーが出走してきた。中央の重賞と変わらない賞金とはいえ、中央の現役バリバリGI馬が地方のダートに出走してくるなど、当時は"事件"といえた。しかも、鞍上は、当時地方で不動の全国リーディングだった船橋の石崎隆之騎手。
今でこそ、中央の有力馬に地方のトップジョッキーが乗ることも珍しくないが、交流が始まった当初、中央馬には中央の騎手、地方馬にはその所属場(または同地区)の騎手が騎乗するのが通例。中央馬に地方の騎手が乗ることを認めていない競馬場もあった。
ダービー馬ではないものの、皐月賞馬と地方ナンバーワン・ジョッキーのコンビは、単勝2.3倍の人気にこたえて勝った。
しかし地方競馬の売上には陰りが見えてきていて、2001年、第1回JBCが始まるという年に、大分県・中津競馬から地方競馬は廃止が相次いだ。
06年度、膨大な累積赤字を抱えた岩手競馬も県知事から一旦は廃止の意向が表明された。しかし、競馬組合議会の最後の最後の採決で、わずか1票差で存続。
存続とはなったものの、当然のことながら緊縮財政での再出発。07年、第22回のダービーグランプリは1着賞金600万円。史上始めて地元馬限定として行われた。
そして08、09年は休止。10年には地方全国交流として復活したが、1着賞金は800万円。「ダービー馬によるダービー」という当初の理念とは程遠い状況ではあった。
それでも17年に始まった"3歳秋のチャンピオンシップ"では、ダービーグランプリがその最終戦となり、1着賞金は1000万円ではあるものの、勝ち馬にはシリーズの実績に応じてボーナス賞金が設定された。
その後、コロナ禍の無観客開催を経て、ネットでの売上が上昇したことで、ダービーグランプリの1着賞金は、20年1500万円、21年2000万円と上昇。
さらに2500万円となった昨年は、東京ダービー馬カイルを含め、南関東から大挙7頭が遠征。東海三冠馬タニノタビト、北海道二冠馬シルトプレ、地元二冠馬グットクレンジングなどが出走し、「ダービー馬によるダービー」が名実ともに復活。勝ったのは、北海優駿馬シルトプレだった。
そして1着賞金が3000万円となった今年、ダート競馬の体系整備によって、地方だけの交流であるダービーグランプリは、その役目を終えることとなった。
その最後という年に、中央相手のジャパンダートダービーも圧勝し、無敗のまま南関東三冠を制したミックファイアが参戦。
北海道三冠馬となったベルピットは、北海優駿を制したあと「あの馬(ミックファイア)にも負けないと思います」と角川秀樹調教師が自信を見せていたのを思い出す。その三冠馬同士の対決が、いよいよ実現する。
のみならず、地方馬として初めてアメリカに遠征し、サンタアニタダービーで僅差の2着、そしてケンタッキーダービーにも出走(12着)したマンダリンヒーローも参戦。地方競馬からダートの本場、アメリカの"ダービー"にもつながった最初の年となった。
神様が仕組んだとしか思えない、ダービーグランプリのクライマックスだ。