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斎藤修の重賞ピックアップ

【コラム】ダービーグランプリ今昔(前編)

 10月4日に盛岡で行われるダービーグランプリ。1986年に第1回が行われ、途中休止もあって今年が第33回。3歳最強馬決定戦であることはずっと変わらないが、その立ち位置は時代とともに変化してきた。
 
 地方競馬の中でも交流がほとんど行われていなかった当時、全国の地方競馬からダービー馬を集めて対戦させようというという企画。「ダービー」+「グランプリ」というレース名からして画期的だった。
 
 そして1着賞金は2000万円。1986年当時、岩手では古馬の主要重賞、みちのく大賞典や桐花賞が1000万円で、当時岩手のダービー的位置づけだった不来方賞は800万円(87年から1000万円)。大井の東京ダービーでも3400万円。南関東以外で2000万円という賞金は破格だった。
 
 ただし、出走できるのは地方競馬の生え抜きのみ。中央からの移籍馬には出走資格がない。中央不出走でも、一度中央に登録された経歴がある馬も出走することができなかった。
 
 当時、地方競馬では南関東のレベルが圧倒的に高く、第1回から第3回までは大井所属馬が3連勝。しかも第1回のトミアルコ、第2回のスタードールは、ともに牝馬。第3回では牡馬のアエロプラーヌが勝ったが、必ずしも南関東のチャンピオン級というわけではなく、同世代で上位を争う中の1頭というレベルだった。
 
 そして時代が平成に変わった1989年の第4回、ついに地元岩手所属馬に勝利がもたらされた。勝ったのはスイフトセイダイ。クビ差2着は佐賀のギオンアトラス。3着にも岩手のグレートホープが入った。ただし、この年は南関東からの遠征がなかった。
 
 だからといって決してレベルが低かったわけではない。その後スイフトセイダイは全国にも打って出た。一時的に大井に移籍する形でその年の東京大賞典(当時は南関東限定の重賞で2800m)に出走し、名牝ロジータの2着。さらに翌年秋にも大井に移籍し、再び東京大賞典に挑戦したが、今度はダイコウガルダンにクビ差、及ばなかった。5歳秋には中山・オールカマーに挑戦して5着。当時札幌(地方)で行われていたブリーダーズゴールドカップにも遠征、大差で圧勝したのは中央のカミノクレッセだったが、スイフトセイダイはここでも2着に健闘した。
 
 1992年、第7回のダービーグランプリは、1着賞金が5000万円に跳ね上がった(同年の東京ダービーは6800万円)。勝ったのは単勝12.8倍の伏兵、笠松のトミシノポルンガ。直線を向いてもまだ後方だったが、末脚一閃。並ぶまもなく前を行く馬たちを差し切ってみせた。鞍上の安藤勝己騎手は、これが地方通算2000勝のメモリアルともなった。
 
 トミシノポルンガは5歳時、重賞に格上げされた第1回平安ステークスで3着に好走し、中京芝2000mのテレビ愛知オープンを勝利。また1995年の第10回ダービーグランプリを制した笠松のルイボスゴールドは、翌96年の阪神大賞典に出走。名勝負として語り継がれるナリタブライアン、マヤノトップガンの一騎打ちから離されはしたものの3着と健闘。地方の馬でもトップクラスの馬たちは中央で通用する時代だった。
 
 中央・地方の交流が一気に進み、『交流元年』と言われたのが1995年。地方デビュー馬にしか出走資格がなかったダービーグランプリも、翌96年には中央との全国交流となった。
 
 その1996年は、現在のオーロパーク・盛岡競馬場がオープンした年でもある。それまで水沢競馬場で行われていたダービーグランプリは、この年から舞台を新・盛岡競馬場に移した。まさしく中央・地方のダート3歳チャンピオン決定戦となった最初の年、勝ったのは、サンデーサイレンス2世代目の産駒として皐月賞を制していたイシノサンデーだった。
 
 芝と比較してダート競馬がまだかなり格下に見られていた当時、中央のクラシックホースが地方に遠征してくること自体がめずらしかった。しかもその鞍上にあったのは、船橋の石崎隆之騎手。
 
 中央のクラシックホースが、南関東のトップジョッキーで、盛岡のダービーグランプリを勝つ。日本の競馬をとりまく状況が急速に変化を遂げる時代だった。(つづく)

斎藤修の重賞ピックアップ
NAR『ウェブハロン』、『優駿』、週刊『競馬ブック』、『競馬総合チャンネル』などで地方競馬を中心に記事を執筆。グリーンチャンネル『地・中・海ケイバモード』『地方競馬中継』解説。ドバイ・香港・シンガポール・アメリカなどの競馬にも足を運ぶ。1964年生まれ。
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